そこにはきみがいた / 1

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それはいまから50年近く前のことだ。書いていきながら記憶の断片を繋いでみよう。
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 小学六年生だった僕はカナダのサスカチュワン州に住む同級生の女性と文通をしていた。月刊誌に毎月載っている海外のペンパル募集のページで彼女を見つけて僕が最初に手紙を出したのが始まりだった。当時は個人情報などという言葉さえもなく、だれもがだれかの情報を大切に扱い、その恩恵に浴し、そうすることがあたりまえの時代だったのだ。事の善し悪しは別としても、住所、氏名、年齢、家族構成、職業、身長、体重、趣味などを実名で公開し、お互いに利用する事は、未知への興味と期待と冒険に溢れていたと言い返すことも出来るだろう。

 この文通は半年くらい続いた。当時文房具店にはエアメール専用の封筒と便箋を売っていた。ごく薄い青色の紙はペラペラでとても薄くて向こうが透けてしまうが、破れにくいものだった。海外向けの郵便料金はとても高いのでできるだけ安くするために薄い紙を使用していたのだ。僕の英語の力量はどの程度で、はたしてどんな内容だったのか、いまではまったく思い出せない。ほんとに英語で書いたのか疑ってしまうほどだ。
 
 僕らが交換した手紙は数えるほどだった。ポストに投函してから相手に届くのは一週間以上、いや一ヶ月くらいだったかもしれない。はっきりと覚えていないのだ。そんなある日、彼女から届いたエアメールには一枚のカラー写真が同封されていた。スタイルがとてもよくて、まるで大人としか思えないようなブロンドヘアーの彼女が広いリビングルームで家族と一緒に写っていた。僕はドキドキした。そこにはまるで映画のような世界が写っていたのだ。彼女が僕のペンパルなのだ。何かの間違いじゃないかとも思った。便箋には僕の写真も送って欲しいと書いてあった。うれしくなった僕は、さっそく母が編んでくれた、胸のぐるりに白い雪の結晶が編み込まれた藤色のタートルネックのセーターと、膝が薄くなった青いコール天(コーデュロイ)のズボンを履き、愛犬スピッツのマリちゃんと一緒に映っている一枚の写真を送ることにした。それは写真を撮影することが好きだった父が撮っていてくれた白黒写真だっだ。
 
 彼女からいつもより早くエアメールが届いた。ワクワクしながら開封して読んでみたら、近況報告など一切なく私(彼女)の写真を送り返して欲しいと書いてあった。最初はどういう意味か分からなかったのだが、しばらくして彼女は写真の僕を見て気に入らなかったのだろうと思った。欧米人にくらべて日本人は同い年でも子供っぽく見えてしまう。しかも僕は同級生の中でも背が低くて幼くみえる。僕をもう少し大人な男と思っていたに違いない彼女は、あまりにも自分と違った幼い僕を見て止むにやまれぬ思いだったのだろうと、幼いながらも僕は潔くそう理解することにした。ちょっとだけ時間がかかったけど。僕は彼女の望み通りその映画の世界のようなカラー写真を送り返して、僕らの半年のペンパルの関係は終わった。僕がいよいよ小学生に別れを告げ、春から中学生になろうとしていた初春だった。

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 こういう小学生だった僕は彼女の他にも前後して、国内のペンパルと手紙をやり取りしていて、まだ見ぬ町に暮らす顔さえも知らない誰かに手紙を書いて送るということのたのしみと、少しの憂鬱も知った。

 この小学六年生の思い出を書き終えて、机の引き出しにしまってあった捨てる理由もないいくつかの手紙を読み返してみた。どれもおよそいまから20年近く前に届いた僕宛の手紙だ。たまたま年始に振り返ってみることができた手紙には、ブルーやブラックのインクで綴られた僕らがいた。それはあまりにもせつない。さしたる理由はないけど、このどうしようもないせつなさを数編書いてみようと思っている。

Memo:
この写真はたしか小学四年生の夏休みころの僕だ。青森と函館を結んでいた青函連絡船の船上だ。昭和63年、1988年に3月13日の青函トンネルの開通にともない同日、青函航路は廃止となった。

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