カテゴリー別アーカイブ: ショートストーリー

ラジオからスティーヴィーの歌が流れてきて

与論島に一軒だけあるジャズ・バーでライブを行うために、僕らはワンボックスカーに楽器とメンバーを乗せて夜遅くに広島を出発した。

鹿児島新港に着くと、台風接近により僕らの乗るはずだったフェリーの欠航を知らされ、鹿児島でバンドの旅を断念せざるを得なかった。しかし与論島では人だけなら下船させてくれるという沖縄行きのフェリーがあるという。その最終便がもうすぐ出ることを知った僕と仲間の一人は、急いで切符を買い、バッグ一つ、他の仲間を残して夕方の鹿児島新港を後にした。

船中では大波に揺られ何度トイレに駆け込んだことか。眠れない夜、頭の重い朝を迎えた僕らは、鹿児島を出港して20時間後には与論港沖にいた。台風の影響で波が高く与論島の桟橋にフェリーを着けることがないのだ。乗客は沖で艀(はしけ・上陸用の小舟)に乗り換えての上陸となった。

晴れていたものの台風の影響で風が強かった。島内には信号機が一つだけあった。茶花というその小さな交差点そばの、いつもお世話になっている民宿「南海荘」に立ち寄り、その足で近所にあるジャズ・バー「スケアクロウ」に向かった。

ライブの約束は果たせなかったけど、オーナーは僕らを快く待っていてくれた。客のいないほの暗い店内をよく見ると、オーナーの友達だというよく陽に焼けた一人の男性がいた。

遠く過ぎ去ったあの夏。照国郵船、大島運輸。南の島の小さなジャズ・バー。PAなし、観客なし。

日焼けしたその男性、ギタリストでありボーカリストのQUNCHO(クンチョウ)さんは、ドラムがわりの一斗缶と蚊取り線香の缶の蓋を叩きながら♪My Cherie Amour(Stevie Wonder)を生声で歌った。
(2年ぶりの投稿となりました。20代だったころ、与論島のあの夜をふと思い出し綴りたくなったのです。それは今夜のラジオがきっかけです。)
ボーカルがQUNCHOさん。こんな声で♪My Cherie Amourを歌ったのです。なおこの映像は「スケアクロウ」の夜ではありません。

肩がならんだ位置

fb.05.07.07

その夜は昨日まで続いていた梅雨寒が去っていた。ビルの二階にあるレストランの外のテラスで、二人はよく冷えた白いワインを飲みながら再会の時間を過ごしていた。見下ろす通りからは、街路樹を小さく揺らした風が肩まで上がってきた。

日帰りの出張の夕方近くになって最後の仕事を済ませた彼は、いまいる街から快速電車で西へ70分、海と山のある街に暮らす彼女に連絡をいれた。「では待っていますね」突然の再会の申し出に彼女は彼の誘いを快く承諾した。

電話を切った彼は彼女のために、あるひとつのプレゼントを思い付いた。それは季節をイメージして調香された数種類のインセンスだ。四季を見立て一年に四度ほど店頭に並ぶ。いまなら夏が並んでいるはずだ。それぞれのインセンスには香りの世界を増幅させる異なる言葉が添えてある。彼はそれを手にするために思いのほか時間がかかり、駅に着いてすぐに快速電車に乗るのを止めて新幹線で向かった。

彼女がオーナーであり、一人で仕切るその店に着いたのは閉店間際だった。彼女はそんなことをまったく気にする様子もなく、いつもの笑顔で迎えてくれた。「この季節の夕方、表のベンチに腰掛けて飲むビールがとっても美味しいの」

ほどなくして二人は店をあとにして通りを並んで歩いた。さっきまで彼がいた街の、誰もが知るあのどうしようもない蒸し暑さはどこにもなかった。歩道に響く足音さえも涼しく響く。小さな交差点の角にあるショーウインドーの前に差し掛かり彼女は立ち止まった。ウインドーの中の白い麻のジャケットを指差しながら「わたし、昨日の夜にここを歩い帰る時に目に止まったの。そしてすぐにこれはあなたそのものだと思ったの。それをいまこうして二人で見ているなんて、なんだか妙だわ」

重くはない食事と白いワインは、弾む会話に調和をもたらしてくれる。「雨の日、あなたの足元は?」「僕は初めから濡れてもいいようにスニーカーかサンダルだね。アスファルトに裸足でもいいと思うこともあるくらいだ。それに傘はよほどの雨でないと差さないから」「いいわね。わたし、あのレインブーツが大っ嫌い。デザイン、色、ブランドがどうであろうと、この先、わたしは履きもしないし、買いもしないわ」「雨がもたらす生活をどう捉えるかによって、その人の生き方が垣間見れることはとても興味深いよ」「わたし、透過されてるみたいでくすぐったいわ」「じつは僕はその雨の季節を今年ほど好きになったことはないんだ。雨が降る。その降る雨が止むと、乾いた大気に適度な湿度を含んだ風が吹く。注ぐ陽射しの質は、受け止めるのが気持ちがいいほど。そして日が変わり、また雨の日が訪れる。それが繰り返すんだ。いっそのこと、この雨の季節がずっとずっと、人生を終えるまで続いてもいいかもしれないなんてことを、ここ数日考えていたんだ」「あれほど夏が大好きだと言ってたあなた、面白いわ」

周りのテーブルにはすでに他の客の姿はなかった。途切れることのない二人のたのしい会話だけがテラスの空気を揺らしていた。彼は最終の新幹線の時間が迫っていることにうっすら気付いていた。それを知ってかどうか彼女は「時間には限りがあるからいいの。そうでしょ」今日彼女に会いたいという気持ちの理由の一端を、そのひとことに見たようで、彼はずっと抱えていた難題が一瞬にして解けたかのように嬉しくなった。

「肩がならんだ位置」と、彼女は透明なガラスのボトルに入った、その一本のインセンスのタイトルめいた言葉をゆっくり読んだ。そして品を纏った美しい笑みをたたえ、空を見上げてつぶやいた。「面白いわ、やっぱり」